日本人で有名なカジノのハイローラー「柏木昭男」とはどんな人物なのか、どうしてカジノの戦士と呼ばれたかなどについて解説します。
カジノで多額の資金をベットするハイローラーは、我々一般人では到底考えられない壮絶なギャンブル人生を送っています。ハイローラーと聞くと海外セレブをイメージするかもしれませんが、世界を揺るがす日本人ハイローラーもたくさんいます。
中でも柏木昭男の人生はカジノ界隈では非常に有名で、その闇の深さは今でも語り継がれています。
そこで今回は、カジノ戦士と呼ばれた日本人ハイローラーの柏木昭男とはどんな人物なのか、ドナルド・トランプとの勝負、人生の末路などについてまとめてみました。
カジノの日本人ハイローラー「柏木昭男」とは
1937年、山梨県で生まれた柏木昭男ですが、実は1992年に暗殺されたという波乱に満ちた人生を送りました。
中学校を卒業後、農業や登山者のガイドで生計を立てていましたが、1969年頃になると親戚と一緒に不動産事業を開始し、いつの日か「山梨の不動産王」と呼ばれるようになるまで知名度が広がりました。
お金に不自由なく暮らす柏木昭男は、頻繁に世界中のカジノへ足を運び、高額な資金をベットするハイローラーとしてカジノ側から認められます。
しかし柏木昭男の評判は決して良くなく、不動産業をしながら地元民に対して金貸し業なども営んでいたため、柏木昭男に対して恨みを持っている人も多かったとされています。
晩年になると、元アメリカ大統領として知られるドナルド・トランプ氏とバカラ対決を行い、カジノ運営者VSハイローラーという構図で大勝負を繰り広げました。
現在では日本の代表的なギャンブラーとして語られ、ある意味で伝説化しています。
付いたあだ名はWARRIOR(戦士)
柏木昭男がカジノ遊びを始めたのは1970年代後半からと言われています。もともとギャンブルが大好きだった彼は、不動産業で大儲けするたびにカジノでのベット額も増えていきました。
彼はラスベガスでバカラに明け暮れ、一度のベット額は通常200,000ドルを超えることもあり、まさにその様はハイローラーそのものです。
柏木昭男が世界中のカジノで名を知らしめたきっかけとなったのが、1990年のオーストラリア滞在中の出来事です。
オーストラリア北部のカジノでバカラで遊んでいた柏木昭男は、たった一晩で29億円という大勝利を手にしました。200,000ドルベットの最高連勝数は17で、カジノ側からはVIPとして認定され、様々な特別待遇を受けるようになりました。
この出来事をきっかけにして世界中のカジノから招待が届き、いつの間にかWARRIOR(武士・戦士)と呼ばれるようになったのです。
ドナルド・トランプとの壮絶なカジノ対決
WARRIORと呼ばれるようになった日本人ハイローラーの柏木昭男は、あのドナルド・トランプとの壮絶なカジノ対決を繰り広げています。
今では世界的に有名なドナルド・トランプですが、柏木昭男とカジノ対決した当時もアメリカでの知名度は抜群でした。そんな超VIPとカジノ対決をした日本人は柏木昭男だけです。
では実際にどんなカジノ対決が行われたのでしょうか?ここからは柏木昭男とドナルド・トランプとの壮絶なカジノ対決について詳しくストーリーを解説していきます。
ドナルド・トランプとの出会い~第1戦
1990年、元アメリカ大統領であるドナルド・トランプは、当時アメリカの実業家として全土で活躍していました。トランプはマイク・タイソンのヘビー級ボクシングのプロモーションのために日本へ訪れていました。
タイソンの試合前夜、トランプはマイク・タイソンと一緒にセレブレーションパーティーを行い、数多くの参加者と記念写真を撮っていました。しかし、部屋の隅にいた柏木昭男は写真撮影を固く拒否し続けていました。
ある程度英語も喋れた柏木昭男は、トランプへ「No picture! No picture!」と言いながら顔を隠していました。どういう理由か柏木昭男は表舞台に出ることを極端に嫌っていたのです。この出会いが、柏木昭男とドナルド・トランプとの初めての出会いでした。
1990年代になるとアメリカの不動産業界は不況に見舞われ、トランプが経営するカジノも例外ではありませんでした。そこでトランプは金策の一貫として日本で有名なハイローラーの柏木昭男を自分のカジノに招待し、お金をまき上げてやろうとバカラで対決しました。
両者の対決は当時のメディアを大いに騒がせ、トランプ・プラザで行われたバカラ対決は2日間にも及び、柏木昭男は600万ドルを日本に持ち帰ることに成功したのです。
しかし、この対決の結果、トランプ・プラザは財政状況をさらに悪化させ、アトランティックシティで最も資金難のカジノにまで突き落とされたのです。
ドナルド・トランプの逆襲~第2戦
負けず嫌いで有名なトランプは、柏木昭男とのバカラ対決の敗戦を黙って見ているだけではなかったのです。あの壮絶な対決から3ヶ月後、戦士の異名を取る柏木昭男にトランプ自ら再戦を持ちかけ、2戦目を承諾します。
第2戦が始まった当初、柏木昭男は900万ドル以上も勝っていましたが、もっと稼ぐことを決意し勝負を続行します。すると、彼は運に見放されてしまったのか、10時間後には逆に1000万ドルもの損失を出してしまいました。
結局、終わってみれば2度目のギャンブル対決ではトランプが勝利を収めました。
この対決の後、トランプは柏木昭男とのバカラ対決のことをメディアに誇らしげに公表していましたが、世界のカジノを股にかけて勝負を繰り広げていた柏木昭男にとっては、世間に知られたくない事実です。
その理由はカジノの柏木昭男に対する信用です。各カジノのハイローラーは現金を持っていなくてもツケでギャンブルを許可されますが、大敗の噂が広がることで信用を失ってしまうからです。
【カジノの闇?】日本人ハイローラーの末路
ドナルド・トランプとのバカラ第2戦後から1年半が経過した1992年1月3日、当時54歳だった世界で最も派手なギャンブラーの1人である柏木昭男が死体として発見されました。
倒れていたのは「柏木御殿」と呼ばれる時価総額50億円とも言われる総ケヤキ造りの建物の中で、敷地内の台所です。全身に10以上の刺し傷を負っていたとのことです。
刺し傷から自殺ではなくほぼ他殺と断定され、これが日本人ハイローラーの末路です。一体誰が柏木昭男を殺したのか?そしてどうして殺されたのか?
ここからは柏木昭男の死の真相について触れていきましょう。
柏木昭男の死はドナルド・トランプが関与?
あくまでも噂止まりですが、トランプ・カジノでの負け金を支払わない柏木に返済を求め、トランプが手下を差し向けたという説、またオーストラリアのマフィアに他のカジノの借金のために殺害されたという説など、様々な憶測が広がっていました。
この柏木の急死により、5億円以上の借金が残ったという話もあり、柏木が通っていたヒルトンカジノのオーナーは驚愕していたと言われています。
さらに柏木は昔から嫌がらせや脅迫など、非常に悪質な手段を用いたビジネスを行っていたとされており、多くの人々から恨みを買っていたようです。もしかしたらその人々の恨みにより、柏木が殺されたという説も考えられます。
個人的な考えとして、トランプが借金返済を求めて手を下したという説はありえないと思います。柏木を殺してしまっては永遠に返済してもらえないからです。
時効成立で真相は闇に葬る
柏木昭男が殺害された現場では、長靴の足跡が見つかり、また勝手口の鍵だけが開いていました。さらに柏木のアタッシェケースが河川敷で発見されたようですが中には何も入っておらず、残念ながら有力な証拠は見つかりませんでした。
犯人がアタッシェケースの中身を処分したという可能性も考えられますが、中身を知っていたのは柏木だけだったようです。
また部屋に侵入された形跡は一切なく、そんな中柏木が十数か所もメッタ刺しにされたことから、犯人はかなりの恨みを持っていたと考えられるのではないでしょうか。
1ヶ月後、車の売買を巡って柏木とトラブルのあった暴力団組員と知人の看護師が容疑者として逮捕されました、2人は柏木殺害の容疑を否定し続けたそうです。
最終的に甲府地検の判断により「物証に乏しい」として2人を不起訴とし、この事件は2007年、未解決のまま時効成立を迎えました。
謎は深まるばかりです。ただ柏木は多くの人から恨まれていたため、容疑者は多数存在していたようです。億単位でカジノに未払い金があったことから、反社会的な危険人物が事件に関与した可能性も否定できません。
しかし全ての真相は闇の中に葬られてしまいました。時効を迎えている現在、柏木事件の真相は永遠に解き明かされることはないでしょう。
【その他】カジノの日本人ハイローラー
カジノの日本人ハイローラーは柏木昭男だけではありません。他にも森巣 博や和田 史久、そしてネガティブな話題の多い井川 意高もカジノのハイローラーとして知られています。
この中で最も稼いでいる日本人ハイローラーが和田 史久で、30億円以上の大勝利を手にした実話が語り継がれています。柏木昭男と比べてインパクトは低いですが、それでも十分なハイローラーです。
ここではカジノの日本人ハイローラーについて、それぞれご紹介していきます。良きところは見習い、悪いところは反面教師にしてみてください。
森巣 博(もりす ひろし)
「森巣 博」というペンネームを持つ鈴木博は、1948年に石川県金沢市で生まれ、京都立豊多摩高校を卒業後は雑誌編集や記者として働きました。
彼はヒッピー文化に憧れをいだき、競輪で勝った資金をもとにしアメリカへと渡り、その後、1975年にイギリス人女性と結婚しました。
彼の本業は作家であり、ギャンブルでの経験をもとに小説やエッセイをこれまで多数執筆しています。カジノでは主にバカラをプレイし、毎年1,000万円以上を稼いでいたと言われています。
和田 史久(わだ ふみひさ)
1963年に滋賀県で生まれた和田 史久。彼は中学を卒業する時には185㎝以上の身長になっており、その体格を活かして柔道の道へ進みます。
そして高校在学中にはインターハイで優勝を経験し、さらに国体でも日本一に輝くなど、オリンピックの指定強化選手にも選ばれる実力者でした。
大学を卒業すると同時に警察官として働くようになり、その後はオリンピック選考会で敗れ、柔道の道を諦めて警察の仕事も退職しました。
株式市場で稼いだ3億円を元手に不動産事業を始め、26億円もの利益を上げるまでに成長。カジノでは最高30億円稼いだことがあり、通算では数百億円もの利益を得たと言われています。
井川 意高(いかわ もとたか)
井川 意高は、1964年に井川高雄の長男として生まれた人物であり、王子製紙の2代目でもあります。筑波大学附属駒場中学校・高等学校を経て、東京大学法学部に入学し、卒業後は王子製紙に入社します。
1998年には副社長に就任し、2007年にはわずか47歳で第6代社長に就任しました。
その後マカオのカジノで莫大な借金を作り、カジノへ返済や再度の軍資金目的で関連会社などから106億円以上の借り入れをし、2011年11月に特別背任罪の容疑で逮捕されてしまいます。最終的には執行猶予なしの実刑が確定し、2016年に仮釈放されました。
ハイローラーカジノ日本人まとめ
今回は、カジノのハイローラーとして知られる日本人の柏木昭男、そしてその他有名なハイローラーをご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか?
特に柏木昭男の生き様はまさにギャンブラーであり、日本のハイローラーの中では最も有名な人物です。最終的には謎の死を迎えてしまいましたが、世界が驚くハイローラーが日本人にもいるという事実を世に知らせることができました。
カジノのハイローラーは誰もがなれるわけではありません。ハイローラーになるためには、莫大な資金とギャンブラーとして覚悟が必要不可欠であり、カジノに認められなければいけません。
しかし少ない資金でも一度の一攫千金でハイローラーになれる可能性は全員にあります。是非日本人ハイローラーを目指し、まずはオンラインカジノで経験を積んでみてはいかがでしょうか。